指先


 僕と彼女がはじめて「会った」のは、十一月の、とびきり晴れた日のことだっ た。僕は、先生に呼び出された友人を待って、教室にいた。授業が終わってから だいぶ時間がたっていたので、もう誰も残っていなかった。僕は一人で本を読ん でいた。
 そこに、彼女が現れた。ゆっくり教室を見渡すと、何も言わずに僕のとなりに 座った。ぼんやりと宙をみつめている。僕が観察していると、急に大きく息をつ いて、机に伏せた。腕は下ろしたまま、頭をかばったりしなかったので、ごとん 、と重い音がした。
 この世界は、科学という名の法則がすべてという顔をして、平然とたくさんの 「例外」を認めている。その法則をすりぬけている人間たちがいるのだ。ほんと うにそこらじゅうに、だいたい百人に一人くらい、それはいる。何らかの不思議 な能力、性質、を持っていて、けれどもそれを自覚することは滅多にない。
 たとえば、僕の学年で一番の秀才。彼は、試験のときに幸運を引き寄せる体質 だ。ヤマを張れば当たる、間違えて覚えていた単語は試験には出ない。それが性 質であるというのに、彼やその周囲は彼の実力によるものだと信じている。
 他には、今教室の外を通った先生。彼には、自分のまわりの水分を自在に凍ら せる能力がある。人を傷つけるのも守るのも簡単だ。けれども彼は、自分がそん な能力を持っているとは想像もしないから、その能力の存在を知らない。
 しかし、僕は違う。僕はこの世界にそういった「例外」たる存在が満ちている ことを、知っている。なぜならこの僕、永山葉月は、その人の特別な点、能力で あったり、体質であったり――に、気づく、能力があるからだ。
 僕は人間を見て、その人物が特別であるか凡人であるか、特別であるならばど のように特別なのか、を見抜くことができる。その力で、僕のとなりで、死んだ ように動かない彼女が、僕と並ぶようなとんでもない特別だとも、知ったのだ。
 彼女は芳川由紀といって、ひとつ年上の、僕の学校で一番有名なひとだった。 彼女より綺麗な人物というのはいくらでもいたし、事故で両親を亡くした、とか そういう設定がついているわけでもない。けれども黒い髪、言葉、吐息、眼差し 、笑顔、そのすべてが彼女は寂しげで、悲しげで。それなのに彼女は揺らがない のだ。何が起こっても、そう、と笑ってみせる。まるで、心を動かすことなどこ の世には存在しないかのように。
 だから彼女は、現代にあらわれた悲劇のヒロイン、なんてコピーで、みなの注 目を集めていた。誰もが遠巻きに彼女を見つめていた。
 この高校に入ってすぐの僕も、彼女を見に行った。噂は兄から聞いていた。僕 は特別を愛す。彼女は単なる特別を超えるだけの要素があった。そして、その通 りだった。彼女は、未来を知っている。
「先輩」
「なあに」
 僕は、彼女に呼びかけた。彼女は死んだように伏せたまま、ゆっくりとこちら を向いた。薄く、いつもの寂しげな笑みを浮かべていた。黒い髪がさらさらと揺 れた。
「先輩は、どのくらい、知っているのですか」
 未来を、とは言わなかった。彼女と話す機会があったら、と僕は何度も夢見て いたので、このせりふもよく考えた末のものだった。できるだけたくさんのこと が、わかるように。
「ぜんぶよ」
 と、彼女は答えた。すこし、笑みが強くなった。
「あなたがどうしてそう言ったのか、あなたの能力がどういうものなのか、そう いうのも含めて、ぜんぶ」
「先輩がここに来たのは?」
「きみと一緒にいるこの景色を、知っていたから。そうしないこともできたけど 、それを選ぶのは、あまり賢くないと思うわ」
 僕はここで、黙った。次に尋ねるべき質問を考えられない。彼女の言葉遣いと 、ゆっくりとした喋り方に呑まれそうだ。
 僕が黙ると、彼女は立ち上がって、今度は窓ガラスに額をつけた。ごおん、と 音が響く。相変わらず、腕は下ろしたままだ。目を閉じているのだろうと感じる 。十一月の青い空は明るいのに、薄く、寂しげだ。彼女と同じ光を放っていて、 彼女がとけてしまいそうな錯覚に陥る。彼女のありのままの姿。僕は、彼女が、 知らないふりをしなくて良いから、ここにきたのだろうと思った。いつもよりも 更に尋常じゃない空気を放つ彼女は、人間でないようにすら見えた。
「先輩が、特別っぽく見せてるのは、苦しいからですか」
「距離って大切だと思うの」
 振り返ることなく、彼女は答えた。淡々と感情を映さない声で、ゆっくりと。 いつもの笑顔ではない気がした。
 僕が言葉を重ねようとすると、彼女はすうと大きく息を吸って、それを遮った 。僕が口を閉じると、じゃあ、と笑って、教室から出ていった。そのときにはも う、いつもの彼女がみせる、特別だけれど人間らしい空気をまとっていた。
「おう、待たせたな」
 僕が我に返って、もう一度本を読み始めるとすぐ、友人が戻ってきた。彼女は これを知っていたので、あのタイミングで去っていったのだなあとわかる。僕は 彼に平気、と答えて、連れ立って歩き始めた。今日は彼とゲーセンに行く約束な のだ。正直彼との約束に興味はなかったけれど、彼女と話せたので僕は上機嫌だ った。
 話す内容を僕が決めていたと、彼女は知っていた。それは、彼女は過去も知っ ているということ。おそらく、過去もまた更に過去から見れば未来であるため。
 また、それは、彼女が思考の未来も知っているということである。僕は芳川由 紀と話してみたいとすら、誰にも言ったことがない。
 僕の能力を彼女が知っているというのは、おそらく、彼女に質問をたくさんし ても別に怒りはしないという意思表示だろう。僕の能力は、さっと一文で能力を まとめてしまうので、細かいところは推察するしかないのである。
 それから、彼女は未来を変えられる。けれども、その先は知らない。「そうし ないこともできたけど、それを選ぶのはあまり賢くない」、つまり、「そう」し なければ、自分の知らない未来になってしまう、だから「賢くない」のだ。
 やっぱり彼女は面白いなあ。ただ単に特別なやつは能力とかもわかりやすくて 、すぐ飽きてしまうけど、彼女ならそんなことはないだろう。彼女の能力はあま りに圧倒的だ。その能力の前ではすべてが無力。彼女自身すら、例外ではない。 それは僕にとって、なににも変えられないほどの魅力。
 僕は、能力を使って、すべてを眺めることが好きなのだ。一般人は特別の前で は無力。特別もまた、僕の前では同じだ。自分が特別だと知らない相手には、い かに能力の存在を気づかせずに考察をすすめるかを楽しむ。特別だと自覚してい たらしていたで、どのように折り合いをつけているのか、感情の機微を暴く。そ れは彼女だって同じだ。僕の前では、特別だってすべて、単なる対象。僕は何よ りも上にいる。
 ふふ、と笑みがこぼれた。不審がる友人をいなしつつ、僕も彼女も、一度も名 前を呼ばなかったなあと思っていた。


 一度接触したのにも関わらず、次の日からも彼女は僕を知らないように振舞っ ていた。僕はすこしそれを煩わしく思ったけれど、そうなることは予想の範疇で もあった。
 しかし、一ヶ月ほどたって、僕はいい加減彼女に接触したくなった。そろそろ 彼女についての考察もし尽くしていて、新しい情報がほしくなっていた。
 彼女の教室を訪ねることも考えたけれど、それはすぐに諦めた。「一介の男子 生徒」が、彼女を呼び出すことなんてしてはいけないのだ。実際は「一介」でも なんでもない、彼女よりよっぽど「特別」なのだけど。
 そんなふうに僕は試行錯誤していたのに、彼女は平然と僕の前に現れた。昼休 み、僕が購買から帰ると教室が騒然としていて、何かと思ったら彼女がいた。手 に小さな袋を持って、扉にもたれている。
「永山、永山、お前呼ばれてる」
「僕が? 芳川先輩に? 」
 彼女がこのクラスに用があるとすれば、それは僕だろうけれど、それでも僕は 驚いていた。彼女は誰にも気づかれないようにするものだと思っていた。距離が 、大切、なのだから。
「先輩」
 僕が呼びかけると、彼女はじいっと僕の顔をみつめて、うつむいた。何かを呟 く。ごめんなさいと、聞こえた気がした。僕が聞き返すと、彼女は首を振った。 何かから逃れようとしているような、ほんとうの必死さを感じた。
しばらく動けずにいると、彼女は僕に目配せをして、歩き出した。遠巻きだが、 たくさんのギャラリーがいて、それを振り切りたかったのだろう。彼女は、部室 棟の一番隅、小さな部屋に入った。低い本棚と、いくつか机と椅子があるだけの 部屋。部室棟の部屋はだいたい埃っぽいのだけれど、この部屋はよく手入れされ ていた。
「ここは? 」
「隠れ家」
 彼女は窓のすぐそばの本棚に持っていた荷物を置いた。中からお弁当を取り出 す。僕は持ったままだった購買の袋を、部屋の中央の机に置いた。彼女はもう食 べ始めていた。
 どちらも何も言わなかった。彼女はただ窓の外をみつめ、僕は彼女について考 えていた。これからなにがわかるだろうか、それは面白いだろうか。それよりこ の部屋は。さっきのはなんだ。どうして僕を呼んだ。僕に、教えろ。
「ここは、今年の六月で合唱部員がゼロ人になると知ってたから、去年入部して 、手に入れたの」
「はあ」
「やあね、あなたの疑問に答えてあげてるだけよ」
 彼女は笑った。はじめて見る笑い方だった。どことなく、楽しげな。誰も見た ことのないような顔。気になったけれど、そこは尋ねるべきでないので、他のこ とを聞いた。
「なんで僕を呼んだんですか」
「わたしの場合、たくさんに囲まれるほうが寂しいのだけど、時々、ひとりでも 寂しくなるときがあるのよ。だから」
 僕はどきりとした。彼女の笑顔はいつものものに戻っていて、それは見慣れて いるはずだった。のに。彼女が僕を呼んだということ、程度は知らないが、気を 許しているということ。そういったものが心地よかった。
 彼女がくすりと笑った。僕の考えを見透かしているのだろう。知っているのと 、実際に目の当たりにするのでは、だいぶ印象が違うのだろうと、僕は推察する 。ただ、彼女の笑い方が苦しげだったのが気になった。笑顔の種類が、増えてい く。


 次の日、僕が出掛けようとマンションを出たら、向かいのガードレールに彼女 が腰掛けていた。曇り空の日だった。
 彼女は僕が出て行くと本を閉じて、にっこりと笑った。寂しげなだけじゃなく て、すこし面白がっているように見える。僕は渋々というふうを装いつつ、彼女 のとなりへ向かった。彼女の頭が見下ろせた。小さいのだな、と思う。僕が腰掛 けると、彼女は永山葉月、と僕の名前を呼んだ。
「なんですか」
「ん、呼んだだけよ」
「……なにがしたいんですか」
「特になにも? 」
「は」
 呆気に取られていると、彼女はふふ、と笑って、ああ面白い、と言った。ほん とうに面白そうな顔をしている。
「わたしだって、未来なんか気にせずに、好き勝手したい日が、あるのよーう」
 歌うように言って、彼女は僕の手を引いた。
「これから暇なことくらい、知ってるわ。永山葉月、あなた、わたしに付き合い なさい。買い物したいの」
「や、僕、出掛けようと思ってて」
「暇つぶしの本屋にでしょう? わたしを誰だと思ってるのよ」
 芳川由紀よ!
 なんだかもう、彼女は壊れてしまったようだ。いや、彼女の今までがおかしか っただけで、単なる女子高生としては、これが普通なのかもしれない。僕は、あ まり興味がないので、わからないけれど。あはは、と笑っている彼女を見ている ると、観察対象としての存在を、彼女が超越していくのがわかった。昨日から、 僕も変である。それもいいかな、なんて、思っているところが、特に。


「先輩」
「なあに」
「卒業おめでとうございます」
 僕がそう言うと、先輩は、葉月までそんなこと言うのね、と笑った。心底おか しそうな笑みだった。
 先輩がおかしくなった日から、正しくは、先輩が僕を呼び出した日からだろう か、僕たちはなんだかつるんでいた。時々お昼を一緒に食べたり、出掛けたり。 一緒に丸一日さぼったこともあった。先輩が誘ってきたり、僕が誘ったり。パタ ーンは様々だ。
 そんな僕らをたくさんのやつが付き合ってるのだと噂したけど、まったくそん なことはなかった。彼女が何を思っているかは知らないが、僕はただ単に、今と なってはものすごおくちっぽけになった「彼女」に対する興味と、彼女が寂しげ でなく笑うことが心地よいだけである。以前彼女に、人はそれを友情と呼ぶのよ 、と言われた。
「どうせ、これで面倒な先輩から解放される、とか思っているのでしょう」
 先輩がむくれた顔をした。先輩はほんとうに表情が豊かになった。はじめはワ ンパターンな笑顔だけだったのが、笑顔に種類が増え、怒りをあらわし、拗ね、 この前などは映画を見て感動して泣いていた。正直、その先輩を見ているほうが 泣けた。親鳥の心境だ。
 今年に入ってからは、僕の前だけでなく、他の人たちの前でもいろんな表情を 見せるようになったらしい。丸くなった、ともっぱらの評判である。クラスメイ トと話し込んでいるのもしょっちゅう見かけるようになったし。今だって、すぐ クラスメイトたちのところに戻るべきなのを、すこしだけ、僕のところに来てい るのだろう。
「そんなことありませんよ」
「嘘ばっかり」
「ほんとうですって! 先輩のほうこそ、これで後輩の相手しなくてもよくなるわ ーとか、思ってるんじゃないですか」
「そんなことないわよ? 」
 おどけたように僕と目線をあわさない先輩に殴りかかる真似をして、僕たちは おおきな声で笑った。次第に収まってくると、先輩は僕をみつめて、
「それじゃあ」
「また。……ねえ、ちょ、ほんと、卒業してからも遊んだりとかしてくださいね 、頼みますよ! 」
 あやしい顔をした先輩に念を押すと、先輩は笑った。それは久しぶりに見る、 「彼女」の寂しげな笑顔だった。窓からは空が見える。明るく、うすく、寂しい 色。
「そうね、そうできるといいわね」

      ※

葉月へ
 あなたがこの手紙を受け取ったとき、わたしはもう、この世に存在していない でしょう。……映画だけの言い回しだと思っていたけれど、実際、こうとしか言 いようがないのね。不思議だわ。
 相談もしないでいなくなって、ごめんなさい。あなたはきっと自分を責めるで しょうから、そうしないように、手紙を書いてるわ。自己満足だから、読み終わ らなくても良いけど、読み終わってくれることを願ってる。
 あなたと出会えて、わたし、幸せだったわ。未来を知ってるということを隠さ なくていい、「わたし」を繕わなくても良いというのは、とっても素敵だった。
 あなたは、あれで繕ってたのか、と思うのでしょうね。あれでも、一応、わた しはそのつもりだったの。それには理由があるから、今からそれを話すわね。わ たしの能力、性質について、あなたが知らないことっていうのは、実は、たくさ んあるのよ。
 わたしは、未来を知っている。誰のでも、知識としてわたしの頭の中に眠って いて、その人の目を見た瞬間に、それは呼び起こされて、わたしに定着するの。 それで、どんな細かいところでも、そのときになれば、知っている、と思い出せ るのよ。……このあたりの感覚は、うまく伝えられないのだけど、会話のひとつ 、どれをとっても、その映像から、言葉の一音一音まで知っている、その映像が 、実際に流れる直前になると、ばあっと頭の中で再生される、という感じかしら 。
 でもね、わたしは、わたし自身の、芳川由紀の未来は知らないの。あなたと話 している景色を見ても、わたしは、わたしが何と言っているのか、どんな表情を しているのかは、わからない。笑っているのか、泣いているのか、なにも浮かべ ていないのか。まわりにいる人の反応からわたしの反応を推察し、わからない部 分の穴をつなぐように、わたしは行動をつないでいたの。そういうふうに行動し ないと、未来が変わるから。
 わたしが知っているのだから、わたし以外の人はその人が思うことを、するこ とを変えられないの。その定点しか通れないのよ。未来は変えられない。でもわ たしは違う。わたしはわたしの未来を知らない。自由自在に行動できて、未来を 変えられるの。
 未来なんか変えてしまえばいいとあなたは思うかもしれないわ。わたしもそう 思えたらどんなに良かったことか! 未来を変えるのって、とても怖いのよ。これ から十年後に幸せになる人が、未来を変えたせいで不幸になるかもしれない。も ちろん逆になるということもありえるわ。でもね、大切な人がわたしのせいで不 幸になる、わたしのせいで悲しくなる、苦しむ。はやく死んでしまう。叶えられ たはずの望みも叶えられなくなる。ぜんぶわたしのせいなの。わたしが、わたし の愛する人を不幸にするの。それにはどうしても耐えられない。
 だから、わたしは絶対に未来なんか変えてやるもんかと思ってたわ。未来を知 ってるというのは、その人のすべてを知っているということだから、どんな人に でもいとおしさがわくの。どんな嫌なやつでも、その人の行動の理屈とかがわか ってしまうと、もうだめなの。大切になってしまうのよ。どんな些細なことでも 、わたしは誰かを不幸になんか、したくなかった。
 でもねえ、わたしがいる限り、それは無理だって気づいたの。わたしがこうし ていろいろ考えるだけで、未来はすこうしずつ変わっていく。当たり前よね、感 じ方が変わるだけで、行動が変わっていくのだから。つまり、この世にわたしは 存在しちゃいけないっていうわけ。それが高一のときのことよ。あなたと出会う 、ちょうど一年くらい前ね。世界に存在を否定されてしまったのだもの、死のう と思ったわ。
 それでも、ずるずるずるずる、わたしは生きてた。そうしたら、あなたが入学 してきた。目を見た途端、わかったの。わたしが、あなたに必要とされる瞬間が あると、わたしは知ってた、だからわたしは生きてられたんだって。好奇心と自 分の優越感を満たすためだったけど、誰かに必要とされるというのは、嬉しかっ たわ。その瞬間までは、ずるずる、誰かを不幸にして、生きてようと思えた。
 そして、あの日が来て。あっという間に時間が過ぎたわ。わたしは、その瞬間 に、終わる覚悟を決めたはずだった。なのにね、次の日もわたしは生きてたの。 学校に行って、いつものように未来に穴を開けないように、わたしを繕って。
 あなたがわたしに飽きることがないと、わたしは知ってた。それでは、わたし はいつまでたっても終われない。終わらなきゃ、終われない、終わりたくない。 どれでも良いわ。どれも正しいもの。とにかく、このままじゃわたしは、誰かを 不幸にしながら、ずるずる、最後まで生きちゃうのよ。それだけはだめだったの 。
 だからわたしは、タイムリミットを決めた。卒業まで。それまでは、どれだけ 未来に穴を開けてもいいの。その間に不幸になってしまった人には、とても申し 訳なかったのだけど、その後も少しずつずれていくよりは、良いから。ひきかえ に、卒業したら、なにもかもおしまい。わたしは死ぬ。
 出会ってから一ヵ月後のあの日、わたしはあなたに会いに行ったわね。あれ、 ほんとうは、もう一ヶ月あと、しびれをきらしたあなたがわたしのクラスに乗り 込んでくるはずだったのよ。そうなっていたら、今頃どうなっていたのでしょう ね。
 わたしがいなくなったら、未来は通るべき点を失うから、自分で選び取れるよ うになるわ。少なくとも、わたしという存在によって、未来が決まってしまうこ とはない。
 あなたと一緒にいたときは、とっても楽しかったわ。短かったけれど、普通の 子のように過ごせて、幸せだった。
 ありがとうね。
 幸せになるのよ。



 そっと触れた彼女の墓は、もう春だというのに冷たかった。シンプルな石のそ れは指になじむ。まるで彼女のように、この石はやさしく、かたくなだった。
 彼女と出会ったときよりも濃く青い空に、喪服の黒が溢れていた。彼女の葬式 に来た人数は、おそらく彼女が思っていたのよりも数倍、多かっただろう。クラ スメイトはともかく、中学や小学校の頃の友人やら、もう卒業した先輩やら、た くさん、たくさん。みんな痛くてたまらないという顔をしている。これを見ても 、彼女は、同じことを選んだのだろうか。自分なんて、人を苦しめるだけだと思 っていた、彼女は。
 はじめは、信じられなかった。あんな笑顔で、笑って一緒にいた彼女がもうい ないなんて。けれども、僕だって伊達に観察者をしていたわけじゃないのだ。最 後の日、卒業式の彼女は、どこかおかしかった。まるで以前の彼女に戻ったよう な。苦しくて、触るなと叫ぶような。どうして、気づけなかったのか。ずっと見 ていたのに。自分がいかに傲慢だったのか、思い知る。ほんとうに大切なことも わからなかったくせに、僕は、何様。
 逃げ出したくなる。僕の存在をなかったことに、彼女を追いかけて。でも、彼 女の逃げと、僕の逃げと、意味が違うことを知っているから。
 どれだけ悲しくても、苦しくても、僕はこの理不尽な世界を生きていくのだ。 彼女が命を捨ててまで、望んだこと。教えてくれたこと。目を閉じる。彼女の笑 顔を焼き付ける。絶対に忘れない。
 あなたに背を向けた先、空は青い。













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