スローリー/3

 

 勢いよくエンターキーを押して、円堂麻はほうっと溜息をついた。結っていた髪をほどいて、紅茶を入れにキッチンに向かう。あったかいミルクティーが飲みたい。

 今回麻に入った依頼はとても急で、二週間で約五十枚の原稿を仕上げるというものだった。たしかに仕方のない事情だったとはいえ、依頼が入ってからの二週間を思うと、仕事をまわしてきたサキを恨まずにはいられない。ほんとうに原稿漬けだった。セイロンの茶葉を取り出しながら麻は苦笑する。

 小さな鍋でお湯を沸かして、茶葉を入れて、ミルクも入れて、少し蒸らす。いちばんおかしな形のカップを取り出して、慎重に注ぐ。原稿終わらせた直後に、お気に入りのカップでロイヤルミルクティー。とびっきりの贅沢だ。

 そういえば、彼がここに来たときも、このカップでミルクティーいれたっけ。ロイヤルじゃなかったけど。

 お気に入りの写真集を探しに書庫に入ると、柊のことが思い出された。『ゲーム』をしていた三ヶ月のうち、柊はかなりの時間をここで過ごしていたからだ。

 彼には酷いことをしてしまった。あたしの都合につきあわせて、傷つけた。戻ってきて欲しいわけではないけれど、彼には元気でいてほしい。

 みつけだした空の写真集を抱えて部屋に戻る。すこしだけぬるくなった紅茶は猫舌の麻に丁度いい。これが麻の日常だ。この三ヶ月の間、崩れていただけで。

        *

 あたしは普通の家で生まれた。

 やさしくもなく厳しくもない両親と、なにもかもがほどほどの兄。金持ちでもなく貧乏でもない環境で、あたしは何不自由なく育った。

 学校の成績も普通。親友と呼べるような存在もいたし、普通に恋愛だってして、それなりに修羅場だって体験した。

 友達としゃべっていれば楽しくて、恋人と話していれば愛しかった。その中で、傷ついて傷ついて傷ついた。

 誰だって体験することばかりの生活。

 だからこそ、なのだと思う。

 どうしてひとは他人を好きになるのか。もし親がいなかったらどうなるのか。なんで口だけはひとつしかついていないのか。

 なんであの子はあんなことを言ったのか。あたしは嫌われていないかどうか。あたしはほんとうに、皆のことが好きなのか。

 あたしは変なことをよく考えて、喜んだり、絶望したりしていた。特別、といえるくらいに本と音楽が好きだったあたしは、いろんな『考え方』を知っていたから。

 そんなふうに、あたしは高校を卒業した。未来は希望だらけなはずなのに、あたしはそれをみつけられなかった。終わってしまう悲しみと絶望だけを持って、あたしは傷ついた。それは周りの皆も同じようで、ぼろぼろぼろぼろ、涙をこぼした。

 それなのに、彼女は飄々としていた。どこにでも一人はいるであろう、馴れ合わない人。いつも一人で、一人なのに満たされているようだった人。

 彼女は悲しむどころか、これからの生活を夢見て、卒業がとても喜ばしいことであるかのように、颯爽と去っていったのだ。

 あたしにはわからなかった。なにが彼女を守っているのか。どうして彼女はあんなに傷つかないでいられるのか。

 傷つくのが嫌いなあたしは、喉から手が出る程それが欲しいのに。

 大学へ行くと、あたしはその悲しみと絶望を忘れた。傷つくことから守ってくれるものは、相変わらず欲しかったけれど、卒業の一瞬に感じた切実さは失われていた。

 なんだかあたしはその大学に馴染めなくて、ふわふわと浮かんだように生活した。まわりの人と距離を置いたから、友達も楽しいことも、なにもかもが高校のときより減ったけれど、あたしはそれで満たされていた。

 そうして、あたしは気づく。これが、卒業の時の彼女と同じ状態なのだと。大学に入ってから、あたしは悲しむことも傷つくことも少なくなった。まわりの人とのかかわりが薄くなったから、あたしは傷つかないですんでいるのだ。

 傷つきたくなければ、かかわらなければいい。

 傷つきたくなければ、深入りしなければいい。

 傷つきたくなければ、限りなくひとりでいればいい。

 あたしは真理を見つけた。

 大学を卒業して、あたしはヒキコモリになった。

 あたしは小説家として生きていくすべをだいぶ前に手に入れていたから、そうすることは思ったよりも容易かった。必要最低限の人にだけ心を許して、あとの人からは、するりするりと逃げてみせればいいのだから。

 ひとりぼっちの生活も、大学のときから浮いていて、本と音楽に満たされたあたしには、ちっとも苦しいものではなかったのだ。

        *

 ミルクティーを飲み終えると、がちゃり、隣の部屋のドアが開く音がした。なぜかとても壁の薄いこの家は、よく隣の家の音を伝える。麻の部屋は角部屋なので、当然音の主は柊だ。噂をすれば影、っていうのはこのことかなあ、麻は思う。

 ふむ、どうやら元気でやっているようだ。計画は失敗したからあいつに怒られてしまうかもしれないけれど、彼が元気ならばそれでなにも問題はない。

 急に眠気が襲ってきて、麻はぼすん、とベッドに転がった。ここ三日ほど、まともに寝ていない。ようやく、眠れる。

 ピィーンポォーン。鳴り響いたチャイムが、うとうとしかけていた麻を現実に引き戻した。誰だろう。今日サキが来る予定はない。そして、この二週間は忙しくて意識していなかったけれど、柊はもう来ないはずだ。

 自分で考えたことにかなりの寂しさを覚えて、麻は苦笑する。インターホンを取ると、柊が最初に来たときと同じ言葉を口にした。

「はい」

「はい」

 ためらってためらって、ようやく押したチャイムからは、初めてここを訪れたときと同じような、よそよそしい声がした。そのときは麻さんの声を心地良いと感じたけれど、今はそう思えない。もっと楽しくてやさしい麻さんの声を知っているからだ。

「逢沢……逢沢、柊です」

「……なにしにきたの」

 静かに名乗ると、少しの間のあと、冷たい返事が返ってくる。でてって。何度も思い出した、別れ際の言葉が脳裏をよぎる。

 でも、良かった。インターホン、切られなくて。ここで切られてしまっていたら、せっかくみつけたこと、決めたこと、何もかも伝えられないから。

「麻さんの、大切なことをみつけました。俺の大切なことと同じ、いえ、たぶん、それより何倍も何倍も重たいことを。ついでに俺は、解決方法もみつけました。……麻さん、あなたは、傷ついて、苦しむのが、もう嫌だったんですね」

        *

 別れを告げられて、はじめて読んでみた彼女の本は、きれいで、やさしくて、かなしかった。やさしい絆とやさしい傷に満ち溢れていた。きれいすぎて、こんなにやさしいものたちはこの世界では持てないんじゃないかとおもった。

 他にも何冊か読んでみてわかった。これは彼女の理想なんだ。やさしい傷は、生まれてからどれだけ人を苦しめても、最後には必ずしあわせにする。やさしい絆は、滅多なことじゃ壊れないし、壊れてもやさしい傷しか生み出さない。しあわせにする傷と、壊れない絆。この世界にはないのに、だれもが欲するもの。

 そして彼女はヒキコモリだと思い出す。誰にも会わないで、ひとりっきりで暮らしている。絆をつくらないかわりに、傷も生み出さない生活。それを彼女は欲したんだ。

 苦しまないために。

        *

「それなのに、麻さんは俺を迎え入れました。まあきっと、なんかあったんですよね。そこまではわかんないですけど。でも結局、最後の一線は越えられなかった。いちばん大切な部分を知ってしまったら、あとは離れるしかない。それがどんな形であれ、麻さんはきっと傷つく。だから麻さんは自分で俺を突き放したんじゃないですか?傷つくのが、必要最低限で済むように」

 インターホンからは何の言葉も返ってこない。ただただ沈黙。そして、やがて、

「そうだよ」

 あたしはよわくて、こわくて、柊を遠ざけたんだ。そんな奴に用はないでしょ?

 麻さんは笑うように言った。かすれそうな小さな声。きっと彼女は、あのときのような、泣きそうな顔をしているのだろう。

「とりあえず、話最後まで聞いてくださいよ。せっかく俺、解決方法もみつけたんだから」

 言って、俺はすうっと息を吸い込む。俺がこんなことを言う権利なんてないのかもしれない。それでも、言わなければいけない、と思った。

「麻さんが人と離れて傷つくのは、その人のことが大切だからですよ。その人と過ごすと楽しいからですよ。だったらその人と一緒にいればいいじゃないですか。もし離れそうになっても、離れないように頑張ればいい。もしそれが叶わなくて、離れることになっても、また新しく大切な人はできるはずです。それはすごく嬉しいことなでしょ?それを得られるだけで、麻さん、俺たちは別れを受け入れられるんじゃないですか?」

「……そうかも、しれないけど」

「俺といて、麻さん楽しかったでしょ?だったら、ひとりでなんかいちゃ駄目ですよ。俺でも、俺じゃなくても、誰でもいいから、大切にしてください。別れがあっても耐えて、また大切な人みつけて、大切にしてください。そしたらきっと、いつか、苦しくなくなりますから……」

 話しているうちに訳がわからなくなってきて、俺は言葉を切った。きっと、どうしても言いたかったことは全部言えたはずだ。伝わったかどうかは別として。

「ありがとう」

 またもその場を貫いていた沈黙を、小さくて、でも今度はしっかりとした声が打ち破った。ああよかった、伝わったようだ。俺は心底安堵する。

「そのまま五分待機!」

 麻さんは楽しそうな声で言って、インターホンを切った。今までの空気が嘘のようだ。これも、ある意味での強がりなのかもしれないけれど。

 そして、五分後。ジーンズをはいて、麻さんはドアからあらわれた。足元は引っ張り出してきたと思われるスニーカー。

「柊、あたしね、ここ一年くらい、ぜんっぜん本屋もCD屋も行ったことないの。場所すら知らない。だからさ、案内してくれるよね?」

 はにかむように笑って、彼女は続ける。

「やめるのもったいないから、続けようか、『ゲーム』」

 俺は大きく頷いた。

 

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