スローリー/1

 

  アパートの狭い階段を上りきったところで、大きく伸びをした。水曜日は学校が短い分、バイトをたくさん入れている。もう午後だけど、これからが今日一日の本番だ。

「あら、柊じゃない。こんなところで何やってるの?」

 気合を入れ直したところで、間の抜けた、そして俺の生活にはしばらく登場する予定のなかった声が響いた。

 おい、嘘だろ。此処は俺の住んでるアパートで。仕送りなしの代わりに、俺の一人暮らし先は両親には内緒でいいってことになったはずで。家族の中で唯一住所を知ってるアニキは、そう簡単に秘密をばらすはずがなくて。なのに。

「なんでお袋が此処にいるんだ……?」

「なんでもいいじゃない、そんなの。それより、柊の住んでるとこって此処なの?結構いいところに住んでるじゃない」

 言うと、お袋は歩き出した。すぐに『逢沢』の表札を見つけて、

「あらま、隣」

「隣って、なんの」

 思わず、というように呟いた声に反応すると、あはは、とお袋は乾いた笑い声をもらす。

「俺史上最大の秘密を暴いたんだからな、それくらい言えるだろ?」

 ピィーンポォーン……

「はい」

 次の日、俺は隣の305号室を訪れていた。安っぽいチャイムからしばらくすると、スピーカーからは心地良いアルトの声が放たれた。それに俺は、遅めの引越し挨拶をよそおって返事をする。

「四月に隣に越してきた逢沢です。落ち着いたので、遅くなりましたがご挨拶に伺いました」

お袋から聞いた話は、到底信じられるものではなかった。305号室には『ヒキコモリ』がいて、お袋はその人に雇われて食料なんかの買出しをしているというのだ。

「怪しいかなあと思ったんだけどね。柾に相談してみたら『良いんじゃない』って言うから。週に一回くらいなのに、お給料も良いし。ラッキーだったわ」

そうお袋は言っていた。

「あ、はい……」

 静かな声がして、インターホンが切られた。ぱたぱたと足音がして、小さくドアが開いた。

 あらわれたのは、ハタチくらいの小柄な女。男が来てもバカでかそうな濃い青のTシャツにスパッツといういかにも部屋着な格好で、ふわふわした長い髪を緩く二つにくくっている。顔立ちは平凡だったが、何故か不思議な印象を俺に抱かせた。

「あ、あの、逢沢といいます。よろしくお願いします」

 これ、よろしければどうぞ、と手土産(昨日のバイト帰りに買った)を差し出した。すると女ははにかむように笑って

「ありがとう。こちらこそ、よろしく。……逢沢くんは高校生?」

「はい、一人暮らししてます」

 はやくも会話が途切れそうになり、俺は慌てて会話の種を探す。そういえば彼女はなんていうんだろうと思って表札を見ると、何も書かれていなかった。ここぞとばかりに、その話をふってみる。

「表札、名前入れてないんですね。どうしてですか?」

「んー、カミサマだから」

「…………へ?」

 い、今なんつったこの女。自分のことを『カミサマ』だと。……いやいやいや、ありえねえよな、そんなこ……

「だから、カミサマなの。あたし」

「し、失礼しまーす……」

 頭がおかしいと判断して、俺は早急にその場を立ち去ろうと試みる。やばいぞ、自分のこと、カミサマだって言い切った、こいつ。間違いなくヒキコモリそうだ……お袋に仕事やめさせねえと……。そんな風に考えていると、がしっと女に手首を掴まれる。

「うあー!待って待って待って!ごめんふざけすぎた!」

「失礼しまーす……」

「うああああ!円堂麻っていうの!あたし!小説家なの!あたしの言語では小説家がカミサマなの!ふつーの人に言ったらどんな反応するか見てみたかったから言ってみただけで、ふつーの人間なの!」

 一気にまくし立てられて、俺は固まってしまう。小説家がカミサマ?あたしの言語?どんな反応?そんな俺を見て女は溜息をついた。

「……しょうがないか。上がりなよ。お茶くらい出すから。ゆっくり話そう」

 彼女の家の中はほんとうに変だった。1DKの狭い家なのにいきなりセミダブルのベッドがどーんといるし、本格的すぎるようなオーディオセットもある。壁の一つには、覆いつくしてしまいそうなほどたくさんの絵葉書と写真、それから走り書きのメモが貼ってある。おまけに1DKの1、唯一の個室は大量の本とCDで埋め尽くされていた。ジャンルもバラバラで、小説から批評に哲学に専門書、漫画に雑誌、クラシックからロック、HIP‐HOPまで。それでも入りきらなかった分が、床に積みあがっている。

「、凄いっすね……」

「そーお?」

 俺に椅子を勧めると、円堂さんはオーディオにCDをセットして、流行りの音楽を流し始める。音量を控えめに設定して、今度はキッチンに立ち、コーヒーか紅茶かを尋ねてきた。

「……紅茶お願いします」

「オーケイ。とりあえず、ミルクかストレートか、濃い目か薄い目か決めて」

「……ミルクの、濃い目?」

「じゃ、セイロンねー」

 そうして出された紅茶(これもまた、変なカップに入っていた)は、妙に美味しかった。ほう、と熱い息をついて呼びかけた。

「円堂さん」

「麻でいいよ。なぁに?」

「じゃあ、麻さん。カミサマって、どういうことですか」

 まっすぐに麻さんの目を見て尋ねる。麻さんは一口紅茶を飲んで、少しもたじろぐことなく答えた。

「だから、小説家」

小説を書くときって、世界をつくるでしょ。ひとつの世界が構成されるためには、そこにいるすべての人の意思を、人生を、運命を決めなくちゃいけない。世界を創造して、運命を決めるのって、カミサマの役目でしょ。だから、小説家はカミサマ。小説を書いて生きてるあたしも、カミサマ。そういうことだよ。変に本名出してなんか起こると嫌だから、表札には名前入れてないんだ。

 言い終えて、また麻さんはにこりと笑う。見た目から十歳くらい年をとってしまったような、落ち着いた顔。

「じゃ、麻さんは小説家?」

「そうだよ」

「……すごい」

 俺はもうほとんど声を出せなかった。しょうせつか。小説家。こんなんでも、俺は結構本が好きだ。それをつくっている人が目の前にいるなんて、信じられないようなことだった。

「そ、そうだ、ペンネーム!もしかすると俺読んでるかもしれないし!読んでなかったら読んでみたいし!」

 俺の声は、ほとんど叫ぶようになっていたと思う。それを落ち着けるように、麻さんは静かに言った。

「うーん、じゃあ、ゲームにしようか」

「ゲーム?」

「うん。逢沢くんが、」

「柊でいいです」

「じゃあ、柊、って呼んじゃっていい?」

「どうぞ」

「柊が、あたしについて調べるゲーム。あたしのことがわかるたびに、あたしは柊に良いことを教えてあげよう」

 どう、このゲーム。ペンネームもそれで探すの。面白くない?麻さんは子どものように言った。

「期限は無制限。あたしが『ここまでは知られたくないなあ』って思うところまで柊が来るか、あたしが柊の根っこがなにか気づいちゃうまで。あたしは常に家にいるから、暇な時いつでも家捜しして良いよ」

「……それに乗らなかったら?」

「あたしのペンネームは永久に闇の中。ていうか、今すぐお帰り願います。ここまで家に入れたのが奇跡なくらいなんだよね、あたしからしてみれば。さあ、どうする?」

「此処まで言われちゃったら、乗るしかないでしょう」

 だよね!楽しそうな麻さんの声が頭から離れなかった。

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